|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 妙 : [みょう] 1. (adj-na,n) (uk) strange 2. unusual ・ 寺 : [てら] 【名詞】 1. temple ・ 戸 : [と] 【名詞】 1. door (Japanese-style) ・ 田 : [た] 【名詞】 1. rice field ・ 市 : [し] 1. (n-suf) city
妙顕寺(みょうけんじ)は、埼玉県戸田市新曽(にいぞ)にある日蓮宗の寺院である。宗内での寺格こそ一般寺院であるものの、日蓮在世中に建立された当地の古刹である。日蓮宗総本山である身延山久遠寺(山梨県南巨摩郡身延町)の旧末寺にして、池上・芳師法縁に属する。 京都市や栃木県佐野市などにある同宗派の妙顕寺と区別するため、「新曽妙顕寺」と称されることがある。 住職不在時などを除き、御首題の授与の求めに対応している。 == 歴史 == === 縁起 === 文永8年(1271年)10月、武州新倉(現在の埼玉県和光市)一帯を領有していた隅田(墨田)五郎時光の妻が難産により生命も危ぶまれていたある夜、時光が日々信仰していた仏が夢枕に立ち、近々新倉付近を通るであろう高徳の僧にすがるべき旨のお告げがもたらされた。時光らが待ち構えているところに通りかかったのが日蓮である。日蓮は前月に龍口(神奈川県藤沢市)において斬首を辛うじて免れたが(龍ノ口法難)、佐渡への配流が決定し、鎌倉街道を護送される途上であった。 時光は早速、日蓮を館に招いて安産祈願を請うたが、流人の身分であるが故に許されなかったため、その場で清水を汲んで墨を擦り、柳の小枝を噛み砕いて筆として、懐紙に安産の護符を書いて時光に授与した。 時光が護符を館に持ち帰ると、妻はそれまでの苦痛が消え、無事に男子(徳丸)を出産した。これにより、時光は日蓮に帰依することとなる。流罪を解かれた日蓮は鎌倉を経て身延山に隠棲するが、弘安2年(1279年)10月に時光・徳丸父子は身延山に日蓮を訪ね、出家して直弟子となり、それぞれ日徳・日堅の法号を授与された。翌年に父子は領地新倉に戻り、後に自邸を改め一寺を建立した。これが長誓山妙顕寺であり、山号・寺号共に日蓮によるものとされる。開山は、後に六老僧の一人に指名されることになる佐渡阿闍梨日向(民部阿闍梨・安立院とも称される)であり、日徳・日堅がそれぞれ第二世・第三世の住職を務めた。 後に妙顕寺は戦火により焼失し、至徳元年(1384年)に現在の新曽の地に移転して再建された。そして、妙顕寺が元々存在した跡地には、現在、旧末寺の長光山妙典寺が存在し、妙顕寺とほぼ同様の縁起を伝えている。なお、妙顕寺・妙典寺と並び、廃寺となったがかつて下新倉には長妙山妙蓮寺があり、これら三寺院の寺号・山号に因んで「三妙三長の道場」と称された時期もあったといわれている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「妙顕寺 (戸田市)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|